『生命とは何か』のまえがき

また一冊読み始めた。かの物理学者シュレーディンガーは、過去に生物について語ったことがあったようだ。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

と思いきや、単に生物学について語ったと言い切ってしまうのは、どうも本質を捉え切れていない感が強い。生物の議論を発端に、科学論や哲学にまで踏み込んで自らの考えを述べたものだと読むのが自然だろうと思う。

中身はびっくり新鮮

古典に分類されるぐらい古い本(1944年刊行)のはずなのだが、提供される視点は今見ても斬新で驚く。例えば、『生物と無生物のあいだ』でも引き合いに出されていた記憶があるけど「生物はなぜこれほどの大きさなのか?」。考えたこともなかった。

本当に優れた学者の興味関心考察は単一の分野にとどまらないみたい。そういえば、古くは”万学の祖”アリストテレスは諸学問に多大な貢献をしているし、中世でもフェルマーニュートンデカルトなど多分野で活躍した知識人は数多い。近現代でもバートランド・ラッセル、クルト・ゲーデルなどは論理学とともに哲学について語っている。

本文以前に、まえがきだけで既に興味深い

ところが、まえがきを見るに、シュレーディンガーは他分野(この場合は生物学)について持論を述べることに引け目があったようにも読める。

そもそも科学者というものは、或る一定の問題については、完全な徹底した知識を身につけているものだと考えられています。したがって、科学者は自分が十分に通暁していない問題については、ものを書かないものだと世間では思っています。このようなことが科学者たるものの侵してはならない掟として通っています。このたびは、私はとにかくこの身分を放棄して、この身分に付きまとう掟から自由になることを許していただきたいと思います。

シュレーディンガーの真意は想像するしかないが、なんとなく分かる気がする。専門家の人は、自らの専門分野でさえ完全な知識を持っているわけではないし、そのことをよく知っているようだ。であるからこそ、他分野については決定的に無知だということも知っているのだろう。

しかし近年よく言われるように、問題領域を分解するアプローチでは対応できない問題というものも存在する。マクロな例を挙げるなら、地球温暖化対策。地球温暖化はそれ自体が一つの巨大な現象であって、要素への分解が難しい。物理学・化学・気象学・生物学・地球科学・計算機科学……エトセトラ。どれもが関わりながらも、どれかの専門領域というわけではない。さらに対策となると、自然科学の範疇ですらない。政治の枠組みと経済的裏づけが必要なのは間違いない。

生物も同様に複雑な事象だといえるようで、シュレーディンガーもそのことに気づいていたようだ。

彼は「言い訳」と称してこう語る。

われわれは、すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を、先祖代々受け継いで起案した。学問の最高の殿堂に与えられた総合大学(university)の名は、古代から幾世紀もの時代を通して、総合的な姿こそ、十全の信頼を与えらるべき唯一のものであったことを、われわれの心に銘記させます。しかし、過ぐる一〇〇余年の間に、学問の多種多様の分枝は、その広さにおいても、またその深さにおいてもますます広がり、われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました。われわれは、今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が、今ようやく獲得されはじめたばかりであることを、はっきりと感じます。ところが一方では、ただ一人の人間の頭脳が、学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは、ほとんど不可能に近くなってしまったのです。

この矛盾を切り抜けるには(われわれの真の目的が永久に失われてしまわないようにするためには)、われわれの中の誰かが、諸所の理論や事実を総合する仕事に思いきって手を着けるより他に道がないと思います。たとえその事実や理論の若干については、又聞きで不完全にしか知らなくとも、また物笑いの種になる危険を冒しても、そうするより他には道がないと思うのです。

私の言いわけはこれだけにします。

あたかも現代の様相を見通していたかのよう。だとすれば、我々は彼に続いていくことが必要なのか。考えさせられる。